浦和地方裁判所 平成元年(わ)938号 決定 1991年5月09日
主文
被告人の検察官に対する供述調書一一通(証拠等関係カード乙四〇ないし四八、五〇、五一)に関する検察官の証拠調請求を却下する。
理由
第一 各書証の証拠調請求をめぐる検察官及び弁護人の主張
右各書証の証拠能力についての弁護人の意見の要旨は、「検察官から証拠調請求のあった被告人の検察官に対する供述調書一一通(証拠等関係カード乙四〇ないし四八、五〇、五一。以下『本件自白調書』という。)は、いずれも任意性を欠き、証拠能力がない。すなわち、被告人の取調べにあたった浦和地方検察庁検事A(以下、『A検事』という。)は、金員授受の趣旨等を否認する被告人の供述を全部嘘であると決めつけ、『嘘つき』『卑怯者』などとののしっては扇子で机をたたいたりして連日被告人を厳しく追及した上、被告人の妻(B。以下『B』という。)と友人C(以下、『C』という。)が収賄側の町長(分離前の相被告人D。以下、『D町長』という。)と面談して被告人の言い分を伝えたことをたねに、突如、平成元年九月二九日(以下、平成元年については、年の表示を省略することがある。)の取調べにおいて、『女房を使って鳩まで飛ばして。』『女房共々地獄に落ちるぞ。』などと物凄い剣幕で言ったばかりか、これをBや弁護人であるE弁護士(以下、『E弁護士』という。)による証拠隠滅であるとして、Bの逮捕やE弁護士の資格剥奪を示唆する等脅迫的言辞を用い、驚いた被告人が、全部一人でかぶれば妻らを助けてくれるのかとたずねるや、『お前が全部認めれば、E弁護士とワイフを助けてやる。』などと約束した。被告人の同検事に対する自白調書は、右のような経緯により、被告人の意思に反して作成された虚偽のものであって、脅迫及び約束による自白というべきであるから、いずれも任意性を欠く。」というものであり、他方、検察官の主張の要旨は、「A検事は、取調べにあたり、被告人に対し脅迫的言辞を用いたことは全くないし、利益誘導等も一切していない。すなわち、BやCがD町長と面談して口裏合わせをした事実を知ったA検事は、これが被告人の指示による可能性があると考え、『鳩を飛ばしたな。』とか『口裏を合わせたな。』などと質問し、被告人の弁解が真実であればそのような口裏合わせの必要がないではないかと追及する一方、右の件でBらが当局の取調べを受けている事実を告げたが、被告人に対し、証憑湮滅罪でBらを逮捕すると言った事実は全くないし、『E弁護士は資格剥奪だ。』とも言っていない。被告人は、自分が不合理な虚偽の弁解を繰り返したため、BやCが捜査機関の取調べを受ける結果となり、迷惑をかけて申しわけなかったという気持ちから自白したものと認められるので、右自白の任意性に疑いを容れる余地はない。」というものである。
第二 当裁判所の判断
一 証拠により認められる本件捜査の概要及び被告人の各自白調書作成の経緯等
1 被告人に対する警察の取調べ
(1) 被告人は、平成元年七月四日上尾市長及び同市職員を畏怖させて金二〇〇〇万円を喝取したとの恐喝の事実(以下、「恐喝事件」という。)で浦和西警察署(以下、「浦和西署」という。)に逮捕され、引続き勾留の上同月二五日起訴され、その後、同年八月二日上尾市都市経済部都市計画課長Fに対し賄賂を供与したとの贈賄の事実(以下、「F事件」という。)で同署に逮捕され、引続き勾留の上同月二三日起訴された。
(2) ところが、浦和西署は、右両事件の捜査の過程で押収した被告人のノートに、被告人が、当時の鶴ヶ島町長Dに対し、前後七回にわたり計一〇二〇万円の金員を渡した趣旨と解される記載があったことから、右金員が、同町長に対する贈賄でないかとの嫌疑を抱き、同年九月一日ころ、右金員授受の有無及びその趣旨等について、被告人の取調べを開始した。
(3) 被告人に対する浦和西署の取調べは、同日以降九月一七日まで、連日午前九時ころから午後五時ころまで続けられたが、被告人は、右各金員授受についてはこれを認めたものの、右は被告人が、D町長から、以前、右翼対策費として受け取った金五〇〇万円を、右対策が成功しなかったことから倍返ししたものであって、賄賂ではないとの弁解を頑なに繰り返したため、取調べは一向に進展せず、このような被告人の態度に手を焼いた同署の取調官は、遂に、自らの手で被告人を自白させることを断念し、取調べを浦和地方検察庁(以下、「浦和地検」という。)に委ねることとした。
2 平成元年九月二八日までの被告人に対する浦和地検の取調べ
(1) 捜査当局は、平成元年九月一七日、D町長に対する一連の金員授受の事実のうち、昭和六二年三月四日ころの二〇〇万円の件につき、被告人を逮捕し、引続き勾留して取調べを開始した。右取調べにあたったA検事は、その後平成元年九月二八日まで、休日を除くほぼ連日、午前九時三〇分ころから、午後七時三〇分ないし八時三〇分ころまで、前記一連の金員授受の事実につき被告人を取調べ、右取調べが午後一〇時ないし一一時ころまで及ぶことも、たびたびあった。
(2) しかし、このような連日の取調べにもかかわらず、被告人は、右一連の授受金員は、それ以前にD町長から受け取った右翼対策費五〇〇万円を、対策が成功しなかったことから倍にして返還したものであるとの従前からの弁解を繰り返し、それらのいずれについても賄賂性を認めなかった。また、被告人は、当局がD町長の自白により探知した、前記ノートには記載のない昭和六二年七月二一日ころの四〇〇万円については、右金員授受の事実自体を否認し続けた。
(3) 右被告人の弁解は、少なくとも、右翼対策費を「倍にして返還した」という点で、明らかに不合理と思われるものであった。そのため、被告人の弁解が全て虚偽であると確信したA検事は、被告人の右態度にいら立ち、被告人を「嘘つき」、「ひねくれ者」、「卑怯者」などと大声で罵倒したり、机を扇子で数回叩くなどして追及したが、被告人は、依然として、頑強に否認し続けた。
(4) ところで、捜査当局は、右捜査の過程で、平成元年九月上旬ころ、BがCとともにD町長と面談し、「町長に渡した金員は、すべて右翼対策費の返還金及びその倍返し金である」旨被告人が警察で弁解していると伝えた事実を探知し、右は、被告人がE弁護士やBを通じて行った罪証隠滅工作ではないかと考え、BとCを取り調べて事実関係の解明に努める一方、本件の主任検事である浦和地検G検事において、両名の行為が刑法上の犯罪(証憑湮滅罪ないし犯人隠避罪)を構成しないかどうかについての検討を始めた。
(5) 当局は、Bらに対する取調べによっても、同女らの行動が、被告人及びE弁護士の指示によって行われたとの事実を確認することができなかったが、A検事は、前後のいきさつから、両名の行動は、当然、被告人の意思に基づく口裏合わせであると確信していた。他方、G検事の検討の結果、九月二五日ころには、Bらの行為は、何らの犯罪も構成しないことが明らかになり、この点は、直ちにA検事にも伝達された。
3 被告人に対する平成元年九月二九日以降の取調べ及び各自白調書作成の経過
(1) 九月二九日、A検事は、午前一〇時ころから、被告人の取調べを開始したが、同日夕刻に至っても、被告人は従前どおりの供述を繰り返していた。
(2) 同日夜に至り、A検事は、この上は、Bらの行動を持ち出して、被告人を追及するほかないと考え、突然被告人に対して、「お前は鳩を飛ばしたろう。」「女房を使って鳩まで飛ばして。女房ともども地獄に落ちるぞ。」などと申し向け、その意味を図りかねて聞き返した被告人に対し、同月上旬ころ、BとCがD町長のもとに行って面談し、「町長に渡した金員は全て右翼対策費の返還金及びその倍返し金である。」との被告人の弁解を伝えて口裏合わせを依頼したらしいので、「ワイフとCを証拠湮滅の容疑で取り調べている。」「そのうち逮捕する。」などと申し向け、被告人が、そんなことを妻に話したことはないが、面会の際に、E弁護士(なお、同弁護士は、被告人の経営する○○工業株式会社<以下、「○○工業」という。>の顧問弁護士で二〇年来被告人と親交があり、本件の弁護人でもある。)に捜査状況を話したことはある旨答えるや、「弁護士がそういう行為をしてはならない。だからEさんも気の毒だけれども弁護士資格を剥奪になるよ。」「Eさんは、弁護士会の副会長までした人なのに、お前はそういう人を巻き添えにしていいのか。」「Eさんは将来がある人なのに、もうこれでおしまいだ。」などと言って自白を迫った。
(3) 被告人は、A検事から、突然、妻が逮捕されるかもしれず、日頃世話になっているE弁護士まで弁護士資格を剥奪されるかもしれないと聞かされて驚愕し、自分が賄賂性を否認し続けているので、A検事は自分を白状させるつもりで脅したのではないかと考え、同検事に対し、「私が認めれば、妻とE弁護士を助けてくれるんですか。」とたずねたところ、同検事は、「お前が認めれば助けてやる。」「全部認めれば、あとから出てきた四〇〇万円の方の業者も助けてやる。」と答えた。
(4) 被告人は、A検事の右言動により、自分が否認を続けると、妻が逮捕されたり、永年世話になっているE弁護士が弁護士資格を剥奪されたりすることになるが、自分が罪を認めれば、そのような最悪の事態は回避されると信じるに至り、その三〇分ないし一時間後に、逮捕事実である昭和六二年三月四日ころの二〇〇万円の授受に関する従前の弁解を撤回し、これを同町長に対する賄賂として供与したものであることを認める趣旨の供述をした。しかし、九月二九日は、既に時刻も遅かったため、簡単な供述調書一通が作成されたに止まった(なお、右供述調書は、証拠調請求されていない。)。
(5) なお、同日の取調べにおいて、A検事は、「修身斉家治国平天下」という○○工業の社是について「女房を使って鳩まで飛ばして、証拠湮滅を図るような夫婦には、このような社是を言う資格はないから、すぐに取り消せ。」とか、社是の書かれた額について「こういう額は飾る資格がないから捨ててしまった方がよい。」などと申し向け、また、○○工業の社名は、被告人が妻と自分の各名前(Bと甲)から一字づつとって命名したものであることを知って、「B(すなわち、B)も甲(すなわち、被告人)も地獄に落ちるぞ。」などとも言っている。
(6) 翌三〇日の取調べにおいて、被告人は、従前その授受自体を否認していた昭和六二年七月二一日ころの四〇〇万円について、その授受を認めるとともに、右四〇〇万円を含む合計一四二〇万円の授受金員全部の賄賂性を認めるに至り、その旨の自白調書が作成された。
(7) 被告人の自白調書は、その後、一〇月一日付、三日付、四日付、五日付(二通)、六日付、一八日付、一九日付、二〇日付、二三日付の計一〇通作成されたが、右各自白調書は、九月三〇日付の自白調書の内容を具体的に敷えんし、詳細化したものである。
(8) なお、被告人は、平成元年一〇月七日に、昭和六二年一月二三日ころの金三〇〇万円及び同年二月二〇日ころの金二〇〇万円の各授受の件について、更に、平成元年一〇月三一日に、昭和六二年七月二一日ころの四〇〇万円の授受の件について、いずれも贈賄罪により起訴されたが、逮捕事実である昭和六二年三月四日ころの二〇〇万円の授受の件及びその余の金員の授受の件については、公訴を提起されるに至らなかった。
4 浦和地検における取調べの環境と被告人の健康状態について
平成元年九月一七日浦和地検においてA検事が取調べを開始した当初は、冷房の効かない取調室で被告人の取調べが行われていたが、その後同地検内の人事異動があり、A検事の取調室は冷房の効く三〇四号室に変更された。ところで被告人は、高月病の持病を有しており、冷房の効いた同室での取調べを苦にし、A検事にその旨訴えることもあったが、同検事は、被告人が膝に毛布をかけたり、防寒コートを着ることを許す程度の対策を講じただけで、そのまま同室で取調べを続行した。
二 右事実認定の補足説明
右認定にかかる事実関係中、取調べの状況については、被告人と取調官であるA検事の各供述が微妙に対立しており、検察官は、A検事の証言(以下、「A証言という。」)と抵触する被告人の供述は、信用できないと主張している。しかしながら、当裁判所は、右両供述を仔細に対比し慎重に検討した結果、両供述の抵触する部分(ただし、九月二九日に被告人が自白を開始した時刻の点を除く。右時刻については、当日、ごく簡単な供述調書しか作成されなかったこと等からみて、これが夜であったとするA証言の信用性は高いと思われる。)については、基本的に被告人の供述の方が信用性が高く、A証言によっては、右供述を排斥することができないと考えるに至ったので、前記のとおり、ほぼ右供述に副う事実関係を認定したものである。そこで、以下、右の点に関する検察官の主張にかんがみ、若干の補足説明をしておくこととする。
1 まず、A検事に自白させられるに至った状況に関する被告人の供述は、概ね前記一認定に副うものであるが、右供述については、それが、特異な事実関係を、詳細、かつ、具体的に描写するもので、極めて迫真力に富むということのほかに、右供述に現われたA検事とのやりとりが、一か月近くも続いた連日の長時間にわたる取調べに対し頑として否認を続けていた被告人をして、平成元年九月二九日夜の取調べを境に急激に自白に転じさせ、その後も一貫してこれを維持させた外的要因として甚だ説得的であること、A検事自身も、公判廷において、被告人の右供述を一部裏付ける証言をしていること(A検事は、例えば、九月二九日の取調べにおいて、被告人に対し、BらがD町長と面談して口裏合わせを行ったことを指摘して、「鳩を飛ばしたろう。」という趣旨の話をしたこと、当日以前に、Bらを警察官や検察官が取り調べたこと、被告人に対し、「Bらの行為は罪証隠滅工作にあたり、E弁護士がこれを指示したのであれば、懲戒されるかもしれない。」と言ったこと、被告人に対し、「嘘を言っているから、『修身斉家治国平天下』というような額を飾る資格はない。捨ててしまった方がいい。」「地獄に落ちる。」などと言ったことなどを、いずれも公判廷で認めている。)が注目されなければならない。
2 右のとおり、A証言は、被告人の供述と必ずしも真っ向から対立するものではないが、例えば、①Bの行為が、証憑湮滅罪にあたるとは言っておらず、単に、広い意味での(又は、モラルの上で)証拠隠滅行為にあたると言っただけであり、従って、Bらを逮捕するとは言ったこともないとする点、②E弁護士は懲戒されるかもしれないと言っただけで、同弁護士が、弁護士資格を剥奪されるなどとは言っていないとする点、及び③被告人から、「認めれば、妻やE弁護士を助けてくれるか。」というような質問を受けたことはないし、自分の方から、助けてやるとかやらないと言ったこともないとする点などで、被告人の供述と対立している。しかし、まず、右①の点については、そもそも、「広い意味での証拠隠滅行為」などという概念は、それ自体余り一般的な用語ではなく、まして、法律の専門家でない被告人に容易に理解し得るものではないから、同検事が、このようなわかりにくい、持って回った言い方をして被疑者を追及するなどということは、常識上にわかに想定し難く、この点に関するA証言は、甚だ説得力を欠く。
3 次に、②の点について考えると、「A検事に、『E弁護士が、弁護士資格を剥奪される。』と言われた。」という被告人の供述は、甚だ具体的、かつ、衝撃的なものであって、被告人が、言われもしない「弁護士資格剥奪」という言葉を、自ら創作して供述しているとは考え難いし、単に「懲戒されるかもしれない。」と言われたのを、「弁護士資格剥奪」と聞きちがえたと考えるのも不合理である。これに対し、検察官は、資格剥奪は弁護士会が行うもので、検察官が勝手にできないことは常識であるとして、被告人の右供述を争っている。しかし、右論法によれば、そもそも弁護士会の自律に委ねられている懲戒処分(実質上の資格剥奪ともいうべき除名処分は、その最たるものである。)について、A検事が言及することもあり得ないことになるが、同検事自身、E弁護士が懲戒処分になるかもしれないと言ったことは、これを認めているのであるから、検察官の右反論は、やはり説得力に乏しいといわなければならない。
4 また、最大の争点である前記③の点については、確かに、検察官が被告人に対し、そのような明白な約束をして自白をしょうようとしたとすれば、それは甚だ由由しいことであり、法曹の一員である検察官が、かかる言動に出ることはあり得ないことと信じたい。しかしながら、この点に関する被告人の供述も、甚だ具体的、かつ、説得的であり、その前段階において、A検事が、当時の行き詰った捜査状況に焦慮して、既に認定したような不当な言動により被告人を自白させようとしていたことを考えると、同検事が、自白と引き換えに、BやE弁護士を助けてやると約束するということもあり得ないことではないと考えられる。のみならず、もし、右約束がなかったとすると、それまで約一か月近くにもわたって、一貫して、D町長に渡した一〇二〇万円は、右翼対策費の返還及びその倍返し金であるとし、また、昭和六二年七月二一日ころの四〇〇万円については、金員授受の事実自体を否認する供述を繰り返してきた被告人が、何故、九月二九日夜を境に、突然従前の供述を翻し、右四〇〇万円をも含む合計一四二〇万円全額について、これを賄賂であると認める供述をするに至ったのか、その理由を合理的に説明することができなくなる。
右の点につき、A証言は、「被告人は今まで虚偽の弁解をしてBに迷惑をかけたのでこれ以上迷惑をかけられないとの理由で自白したものと思う。」とし(同旨の説明は、「被告人の九月三〇日付自白調書の内容」という立証趣旨のもとに弁護人の申請により取り調べた九月三〇日付自白調書中にも存在する。)、検察官は、右のような自白の動機は「極めて自然」で「合理的」である旨主張している。しかしながら、右のような説明をしたA検事自身、Bらに迷惑をかけてしまった被告人が自白をすれば、何故にこれ以上の迷惑をかけないですむことになるかについて、合理的な説明をすることができないのであり、同検事は、結局、被告人が否認を続ける限り、Bらが今後更に取調べを受けるかもしれない(逆にいえば、自白をすれば、その取調べを受けずにすむ)と考えた可能性があることを認めるに至っているのである。このことは、同検事が、被告人に対し、Bらに不利益処分をしないことと引き換えに自白をしょうようしたことを暗に認めたものといえないことはないのであって、右の点をも併せ考えると、自白の動機に関するA証言は、A検事との約束の存在を明言する被告人の供述に比し、信用性に乏しいといわなければならない。
5 なお、被告人がE弁護士を通じて、BにD町長への口裏合わせを行うよう指示を与えていたと仮定すれば、被告人は自らの指示した罪証隠滅工作が検察官に発覚してしまったことを知り、これ以上否認を続けても検察官には通用しないものと諦め、自白を始めたものであるとの説明が、あるいは可能となるかもしれない。しかしながら、取り調べた証拠の中には、被告人が、Bらに対しD町長との口裏合わせを指示したことを窺わせる証拠は存在しないのであって、むしろ、この点に関するA証言(「取調べ中、BとCがD町長のもとに出向いたことを告げると、被告人が意外そうな表情をした。」というもの)は、被告人が、右Bらの行動を全く知らなかった(従って、E弁護士を通じて前記の口裏合わせを指示した事実もなかった)ことを示唆するものである。そうすると、被告人が、罪証隠滅工作の発覚により自白するしかないと諦めたというのは、証拠に基づかない単なる想像にすぎないことになる。
6 以上、詳細に説示したとおりであって、取調べ状況等に関する当裁判所の前記事実認定は、A証言によって左右されることはないというべきである。
三 本件自白調書の証拠能力について
1 前記二において詳細に認定したところによると、被告人は、別件(恐喝事件及びF事件)の起訴後の勾留期間中である平成元年九月一日以降、D町長に対する贈賄の容疑で、連日浦和西署の警察官の取調べを受け、その後、同月一七日右贈賄の一部の事実により逮捕されたのちは、浦和地検のA検事により連日長時間の取調べを受けたものの、金員授受の趣旨等を頑強に否認していたところ、被告人の右態度に手を焼いた同検事は、捜査の過程で探知した被告人の妻BらのD町長への働きかけとみられる事実をたねに、被告人を追及しようと考え、同月二九日夜の取調べにおいて、右働きかけが被告人の意思に基づいて行われたとか、これに弁護人であるE弁護士が加担していた等の事実を確認しておらず、かつ、Bらの行為が、証憑湮滅罪等の犯罪を構成することがあり得ないことが明らかになっていたにもかかわらず、被告人に対し、「鳩を飛ばしたろう。」「女房ともども地獄に落ちるぞ。」「ワイフとCを証拠湮滅の容疑で取調べている。」「そのうち、逮捕する。」「E弁護士も弁護士資格剥奪になる。」などと申し向けて脅迫し、驚いた被告人が、「認めれば、妻やE弁護士を助けてくれるんですか。」とたずねるや、「お前が認めれば助けてやる。」「全部認めれば、あとから出てきた四〇〇万円の方の業者も助けてやる。」などと約束したため、自分が自白しないと妻や永年世話になっているE弁護士が重大な不利益を受けることになると信じた被告人は、その後間もなく、計七回にわたり授受された計一〇二〇万円に及ぶ金員が、D町長に対する賄賂の趣旨であったことを認めるとともに、それまで授受自体を否認していた四〇〇万円についても、その授受及び金員の趣旨をともに認める供述をするようになり、その趣旨の供述調書の作成に応じていったものと認められる。ところで、被告人の自白の直接の動機となったA検事の言辞は、要するに、被告人が否認を続ければ妻らを逮捕したり、E弁護士が弁護士資格を剥奪されることになるが、自白すれば同人らを助けてやるという趣旨のもので、このような言辞によって得られた自白は、脅迫及び約束ないし利益誘導によるものというべきである(なお、A検事には、E弁護士の資格を剥奪する権限がないことに着目すると、右資格剥奪をめぐる同検事の言動は、いわゆる「約束」の概念に入らないとの反論も考えられるが、かりに同弁護士がBらのD町長への働きかけとみられる行動に加担していたとすれば、同検事ないし浦和地検は、これを表沙汰にして同弁護士の実質上の資格剥奪ともいうべき除名問題に発展させるか、内内にことを納めてことを荒立たせずにおわらせるかについての事実上の決定権を有していたと認められるので、同検事による「自白をすれば、E弁護士を助けてやる。」との約束は、自己の事実上の権限内に属する事項に関するものとして、やはり、自白の任意性を疑わせる一事由になるというべきである。)。のみならず、A検事において、Bらの行為が、証憑湮滅罪等の犯罪を構成する余地がないこと(従ってまた、Bらを逮捕することはあり得ないこと)を知悉していたのに、あたかも、当局が今にもBらを逮捕することができ、また、逮捕する予定であるように装った点、及びBらの行為にE弁護士が関係していることを確認していたわけでもなく、従ってまた、同弁護士が除名処分になるかどうかは全くの可能性の問題に止まることを知りながら、あたかも、検察官がことを公にすればこの資格剥奪が確実であるかのように装った点で、偽計的な要素も色濃く認められる。本件自白調書は、A検事の右のような脅迫、約束ないし利益誘導、更には偽計という不当・違法な取調べの影響下に作成されたものであるから、その余の問題点を捨象して考えても、まずこの点で任意性に強い疑いを生ずるといわなければならない。
2 右の点に加え、本件におけるA検事の取調べ方法には、次のような問題点も存在する。すなわち、被告人は、持病の高月病のため、冷房の効きすぎる取調室での取調べに苦痛を感じて、これをA検事に訴えたが、同検事は、被告人に防寒コートを着せたり、毛布を膝にかけることを許すという程度の微温的な対応をしたに止まり、窓を開くとか取調室を変更するなどの抜本的な対策を講じておらず、既に二か月以上にわたって身柄拘束の上取調べを受けている病身の被告人の健康状態に対する配慮が十分でなかったこと、平成元年九月二八日までの取調べにおいて、同検事は、被告人に対し、「嘘つき」「ひねくれ者」「卑怯者」などと大声で罵倒し、検事執務机の前に置いてある机を扇子で数回叩いたりして被告人を威迫したこと、同月二九日の取調べ中において、同検事は、被告人に対し、○○工業の「修身斉家治国平天下」という社是を取り消せとか、社是の書かれた額を捨ててしまった方がよいなどと申し向けたばかりか、「Bも甲も地獄に落ちるぞ。」「女房ともども地獄に落ちるぞ。」などと言って被告人を威迫したことなどがそれである。A検事のこれらの言動は、これを個個に取り上げる限り、必ずしも、それ自体で直ちに自白の任意性に疑いを生じさせる事由であるとまではいうことができないかもしれないが、前記1指摘の諸事情と結び付くときは、虚偽自白を誘発する蓋然性の高い、著しい不当な取調べ方法であるというべきである。
3 なお、検察官は、意見書中において、被告人が、平成元年九月二九日に従前の弁解を撤回したあとも、昭和六二年三月四日ころに授受された二〇〇万円の趣旨について、D町長の供述と矛盾する供述をし、必ずしもA検事の追及どおりに供述していたわけではないとして、この点を、自白の任意性を肯定すべき一事由として指摘している。しかし、前記のような不当な取調べ方法によって得られた自白は、そのこと自体によって、任意性に強い疑いを生ずると解すべきであり、たとえ、右自白の内容が、完全には捜査官の考えのとおりのものでなかったとしても、そのことの故に、自白の任意性が肯定されることにはならないというべきである。また、検察官は、意見書中において、自白調書の中には、被告人しか知らないと思われる「天の声」「地の声」などの用語が出ているので、被告人が自ら進んで供述したとしか考えられないとも主張するが、取調べ状況を客観的に明らかにする証拠が存在せず、従ってまた、自白調書中にあるというこれらの言葉が、どのような経緯で調書に記載されるに至ったのかを知る手段が存在しない本件において、右調書中の片言隻語を重視して自白の任意性を肯定することの危険であることは、多言を要しないところである。
4 最後に、本件自白調書の証拠能力については、許される余罪取調べの限界との関係でも、重大な問題のあることが指摘されなければならない。前記のとおり、捜査当局は、約二か月前に別件により逮捕・勾留した被告人を、右別件(恐喝事件及びその後のF事件)の起訴後も拘置所へ移監せず、引き続き代用監獄である浦和西署の留置場に勾留したまま、平成元年九月一日以降、右各勾留の基礎となる事実とは全く関係のない本件につき、改めて逮捕・勾留の手続をとることなく取調べを開始し、十数日間にわたり連日長時間の取調べを行った末、同月一七日に至り、そのうちの一部の事実(昭和六二年三月四日の二〇〇万円の授受の件)につき被告人を逮捕し、引き続き勾留の上、連日厳しい取調べを続行し、浦和西署の取調べの開始から約一か月を経た九月二九日、遂に右事実につき被告人を自白に追い込んだものである。
いうまでもないことであるが、起訴後の被告人の勾留は、罪証隠滅を防止し、かつ、被告人の公判廷への出頭を確保するためだけのものであって、かりに捜査段階において、被疑者を代用監獄に勾留した場合であっても、起訴後は速やかに拘置所へ身柄を移監するのが本則である上、起訴後の被告人は、別罪につき新たに逮捕・勾留されない以上、いかなる意味においても取調べ受忍義務を有しない。もっとも、実務上は、起訴後被告人に対し余罪の取調べを行うことが時にあるが、右余罪の取調べは、元来、身柄拘束中の被告人が別罪を自白していて、任意の取調べに応じることが明らかであるような場合に、改めて右別罪につき逮捕・勾留の手続をとると、かえって手続が煩瑣になり被告人に不利益になることなどを考慮し、事実上起訴後の身柄拘束を利用して被告人の利益のために行う任意処分と解すべきである。従って、これと異なり、右別罪を否認している被告人に対し、同罪の取調べを行う目的でその身柄を引き続き代用監獄に止め置いたまま、連日厳しい取調べを行って別罪についての自白を迫るようなことが許されないことは、明らかなところである。
ところで、本件において、浦和西署は、九月一日から一七日に至る間、既に恐喝事件及びF事件について起訴され同署に勾留中の被告人に対し、新たに本件(D町長に対する贈賄事件)についての逮捕・勾留の手続をとることなく、連日長時間にわたり厳しい取調べを行ってこれを自白に追い込もうとしたものであって、このような取調べが違法であることは、論を待たない。また、A検事は、右のような同署の取調べの事実を認識しながら、これに引き続き、同月一七日以降自らも連日厳しい取調べを行ったもので、右取調べは、これに先行する同署の取調べの結果を事実上利用したものというべきである。従って、同検事の取調べは、三月四日の二〇〇万円の授受の事実につき逮捕勾留の手続を経た上でのものであるという点で、浦和西署の取調べと全く同視はできないにしても、同署の違法な取調べの効果を承継する違法なものであったというほかなく、このような取調べによって作成された被告人の自白調書の証拠能力には、右の観点から考えても、疑問があるといわなければならない。
第三 結論
以上のとおりであって、検察官が証拠調べを請求した本件自白調書一一通は、いずれもその任意性に疑いがあり、記載された事実関係の存在を立証するための実質証拠としては、これを許容することができないので、右請求を却下することとする(なお、右のうち、平成元年九月三〇日付供述調書だけは、弁護人が、「九月三〇日付自白調書の内容」との立証趣旨のもとに証拠として申請し、既に取調べずみであるが、右は、あくまで、九月三〇日に作成された自白調書の内容を明らかにすることによって、一連の自白調書の任意性存否の判断の資料にしようとするに止まるから、これを実質証拠として使用することのできないことは、当然である。)。
よって、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官木谷明 裁判官久保眞人 裁判官大島哲雄)